My Works 1
すべてはここから始まった

私がプラスチックモデル作りを始めた頃はまだタミヤのMMシリーズがやっと10番台に突入したばかりのころです。
現在のミリタリーモデルのスタイルがやっと黎明期を迎えたばかりの頃で、モーターが入っていない戦車が珍しいといわれた時代でした。
現在、ミリタリーモデルを支えている多くのモデラーがこの頃のMMの洗礼を受けた人達ですので、当時の模型事情、経験は、ほとんど共通していると思います。
当時の男の子は大概、プラモ造りに手を染めていました。
私もその一人でした。
あの頃は、MMの新製品によって様々な車輛を憶えました。現在のようにミリタリーの専門誌があるわけでなく、模型の情報源と言えば、月刊少年ジャンプに連載されていた「少年プラ模型新聞」ページとか、表紙の裏に掲載されていたタミヤの広告、あるいはキットの説明書の解説ぐらいのものでした。
新製品が出るつど、それを買って組み立て、車輛を覚える。それが私のスタイルでした。
そのような中、タミヤのMMシリーズの製品が充実するにつれ、空前のミリタリーブームがおこりました。模型雑誌では毎月のようにミリタリーの特集が組まれ、実車の専門雑誌PANZERも登場しました。AFVの専門誌ということで、創刊10号ぐらいだったか、定期講読を始めました。そこでは模型化された戦車や車輛以外にも様々なトラックやら大砲やらの陸上兵器が紹介されており、特に私の目を引いたのが軍用トラックや装甲回収車、工作車などの、いわゆる補助車輛でした。しかし、当時はある程度メジャーな車輛でないとキット化されず、そのような車輛がキットとして出るのは夢のようなことだったのです。
ところが、世の中には凄い人がいるもので、無ければ作ってしまえばいいのだとばかりに自作(スクラッチビルド)や改造を始める人が出てきたのです。
その代表格がミリタリーモデル界の伝説にまでなったカンプグルッペジーベンのメンバーでした。タミヤニュースやカタログで紹介された作品はそれは衝撃的でした。特にジオラマに登場する製品化されていない車輛には目が釘付けになりました。それらのほとんどが既存キットを改造したり、1から全て作り出したスクラッチ作品であったのです。
そして、改造やスクラッチ技術についてHJ誌で連載が始まると、私はその記事をせっせと読み、やがて自分でもキットを改造したりし始めたのです。あのころは技術的にも未熟で、とても連載で紹介されているようには作れませんでしたし、材料にしてもタミヤのプラ板(当時は0.3、0.5、1.2の各厚さのプラ板を小さくカットしたセット販売であったと記憶しています)ぐらいで、ほかには素材は何もありませんでした。
それでも、キットに無い車輛がほしいとプラ板を購入、おぼつかない手で、プラ板加工を始めたのでした・・・・・・。


思い出の作品↓

1番最初に作ったのは何だったのかはっきりしないのですが、どうしても作りたいと中学生のころ、少ない資料から概ねこのぐらいの大きさと推定し作ったのがこの「ゴリアテ」です。模型作りに手を染めたばかりの頃の作品はほとんど捨ててしまって現存していないのですが、捨てきれずに模型室の片隅で保管されていたものです。今、見るととても作品と呼べるものではありません。ディティールなど無きに等しく、足周りもスプロケットが作れず、キャタピラも画用紙を切った帯で代用しています。しかし、現在にいたるスクラッチビルドへののめり込む原点の作品だと思っています。このゴリアテを作った時、75ミリ歩兵砲も作っていますが、現物がどこかへ行ってしまいました。そちらは車輪をウィルスMBから転用し、その他の部分をプラ板から作った、映画に出てくるマガイ物兵器のような代物でした。

中学生の時、本格的な改造を手掛けたのがこの「8tハーフトラックV2誘導車」です。HJ誌に載っていた記事と図面を参考にチャレンジしたものです。プラ板に図面を鉛筆でトレースし、Pカッターで切り出すという、豪快な手法(というよりも加工技術を知らなかった)で作っています。こまかな部分(雑具箱など)をプラ板の箱組で作れなかったため、バルサ材を削って作っています。寸法にプラ板の厚さを考慮しなかったことと、Pカッターで切り出したため誤差が発生し、至る所をグンゼパテ(乾くと粉のようになるパテだった)で埋めて強引に形にしています。塗装は缶スプレーで行い、迷彩パターンは画用紙にパターンを切り抜いたものをマスクとして行っています。素材となった8tハーフは色も塗らずに組み立てていたものを転用したものですが、当時は改造のために新たにキットを買う小遣いがありませんでした(8tハーフは900円もした)。潰す時に少々残念な気がしたことを憶えています。後年、我が模型部屋に遊びにきたTMCメンバーがこの作品を見つけだし、「昔からこんなことをやっとったんか」と驚いていましたが、話を聞くと同じようなことをみんな経験しているのでした。

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