前夜から出た熱でぼんやりしたまま僕はガンジスの岸辺にたどりついた。
夜明け前のガンジス。水面は暗くよどんでいるが、遠い対岸の上の空は赤紫に染まり、間もなく太陽が上る時刻になる事を教えている。水面に向かって階段状に下がる沐浴場のとなりにある、突出した台の上で死体を焼いた残り火が時おり赤い炎を見せ、風向きによってはそこから独特の臭いが漂ってくる。ガンジスの水に身を沈め、祈りを捧げる人々は、そんなことはまるで意に介さず、ひたすら祈り続けている。灰色のカラス、身じろぎしない行者、川面を白布に包まれた死体が流れていき、そのすぐそばを船が平然と横切る。生と死が同居する場所。ここでは時間だけがゆっくり流れ過ぎている。
僕は子供の花売りから半ば強引に売り渡された小さな花束をもって、階段に腰を下ろし、目の前の出来事をただ眺めていた。その時、僕は二十歳になったばかりだった。ひどく落ち込んでいた。
忘れろ、気にすることないじゃないか、おまえ彼女のこと大好きなんだろ、自問自答しながらも心の中の澱は消えようとしない。付き合い初めて4年、進学先の都合、彼女が先に社会人になって再び、離ればなれになったものの、僕と彼女の関係は壊れることなく続いているはずだ。僕は彼女のことを心から愛し、大切に思ってるんじゃないのか。彼女もそうでなかったか。遠く離れた異国で考えている事は、情けないまでに彼女と過ごした一夜に起きたことばかりで、自分がどうしてここにいるのかも、良く分らなくなりそうだった。

彼女は僕にとって初恋の人だった。一歳年上の学校の先輩。初めて見た時、肩にかかる髪。その前髪が額の上でまっすぐ揃えられている。大きな瞳と時おり静かにやさしく微笑む笑顔が印象に残った。可愛いなと思いつつ、その時はまさか自分の恋人になるとは思ってもみなかった。憧れの対象でしかなく、時おり廊下で見かけると胸が高鳴るけれど、どうにもならない存在だった。僕は高校に入ったばかりで、恋とか愛と語られるものがどんなものか分かっていなかった。イメージはあったが、具体的なものではなく、本から得た知識程度のものだった。
ところが、ひょんなことから彼女の名前を知り、文化祭で初めて話をした。高校2年の時だ。お互いその時、何が気にいったのかは未だ良く分らないのだけれど、週一回、土曜の放課後、待ち合わせるようになった。どちらが先に誘ったのか記憶にないが、多分、僕だ。
僕は陸上部の練習をさぼって時間を作った。高校時代の付き合いはたわいのないものだった。学校が男女交際を禁止していたため、待ち合わせ場所は学校から遠く離れた場所、人目につかない川の堤防や神社の境内なんかで腰を並べて缶コーヒーを飲みながら一緒に話をする程度のものだった。日が沈む前にさよならした。1回だけ一緒に入った喫茶店で生徒指導の先生に見つかって、こっぴどく叱られた。彼女は首をすくめていたが、それで二人の間が終わりになることはなかった。
好きだと伝えたのは彼女が卒業する一ヶ月ほど前だ。それまで何度か言おうと思って、口に出せずにいたが、その時は自然と言えた。同時に徹夜で書いたラブレターを手渡した。彼女は手にした封筒を胸のポケットに入れ、それから少し考え込むようなそぶりを見せたが、直接、言葉では答えてはくれなかった。なにかに驚いたように何度もまばたきをした後、無言で背を向けられると、これはふられたと思った。そうだよな、年下の僕が彼女に応えてもらえる訳がない。どう考えたってつり合わないよな。単なる男友だちの一人だったんだ。僕は体から力がぬけ、ただ、去っていく彼女の背中を見送っていた。
それから2日間ほど僕は意識的に彼女を避けた。彼女はほとんどの3年生が受験で3学期は学校に出てこない中、推薦で短気大学への進学が決まっていたから、ほぼ毎日、校内で姿を見かけていた。鬱々とした気分で過ごすのはつらかった。どっちでもいいから一言、直接言ってくれればすっきりするのに。などと少し彼女を恨んでいる自分がいやだった。

久しぶりに陸上部の練習で長距離の走り込みをやって、疲労困ぱいで帰宅した日、なにげなく郵便受けをのぞくと中にピンク色の封筒があるのに気付いた。なんだ?ダイレクトメールか?手に取って裏側を見ると彼女の名前があった。え?慌てて制服のポケットに突っ込み自室に駆け込んだ。親が見てないかなと心配したがどうもこの日は郵便受けを誰も見ていないようだった。もし見ていれば食卓の上に置かれているはずだ。
どきどきしながら封を切ると小さな丸い文字がびっしり書かれた便せんが出てきた。彼女の書く文字をこの時初めて見た。まじめで几帳面なことは分かっていたが、自分の書いた、へたくそな文字の羅列のラブレターが恥ずかしくなるほど、タイプで打ったかのように整然と書かれていた。
文字を追ううち、僕は「やった」と叫びたくなった。そこには、まず最初にこの手紙を出すのは勇気がいったこと。住所を名簿で勝手に調べた事に対する詫びがあった。その後、これまでに僕の気持ちを薄々感じていたこと。自分の気持ちも僕と同じだということ。年上の自分から言い出すにはためらいがあり、嫌われはしないかとの不安があったことが書かれていた。そして僕が打ちあけた日、突然でびっくりして答えられなかったと詫びていた。さらに私でいいの?大切にしてくれる?離れていても大丈夫かな?と問っていた。
地獄から天国へとはこのことだった。胸が高鳴り、誰かに自慢して触れ回りたくなった。笑いを押さえようとする僕をいぶかしる母親を前にして食事を終えると、自室にこもって新品の便箋に返事を書いた。本当に一生懸命に書いた。それこそ恥ずかしくなるぐらいの、彼女への感謝の言葉と自分の気持ちを書き連ねた。この手紙から彼女と恋人としての交際が始った。
卒業式の日、彼女が人気者だったことを知った。記念写真を男子生徒にせがまれ、えらく緊張した表情で応えていた。後に知ることになるが、彼女は写真が嫌いだったのだ。嫌なら断わればいいのに断わり切れなかったらしい。僕の所属する陸上部の先輩は「結局、ものに出来なかった。可愛いよなあ〜」と僕に後悔しきりの表情で言った。まさか目の前にいる僕が彼女と心の中をお互いに知らせあった仲になっているとは思ってもみなかっただろう。それまでにも二人は周りにばれないよう、上手く立ち回っていたから、高校時代は多分、誰も気付いていなかったはずだ。
卒業式から何日かたって、僕と彼女は離ればなれになる前に会っておこうと丸一日かけてデートをした。そのとき、写真が欲しい、撮りたいといったら、「写真は苦手だからなあ、本物を見てるんじゃ駄目?」とやんわり断わられた。どうしても欲しいとせがむと後日、渡すと約束してくれた。それから何回か会って、進学先の下宿の住所、電話番号のメモとともにやっと写真をもらった。「自分で気にいってるのがないんだ。アルバムから剥がしてきた」はにかみながら手渡された写真は体操服姿で芝生に座って笑っているものだった。「これでいい?」と聞かれ、僕はうなずいたが、その写真はその後、ずっと僕の宝物、心の支えになった。
その時、思わず「キスしたい」と口に出かかったが、大きな瞳でじっと見つめられるととても言い出せず、また、そんなことを言うと嫌われそうに思え、そこまで出かかっていた言葉を飲み込んだ。彼女は黙ってしまった僕に首を傾げ微笑んだ。「行こうか」。結局、僕と彼女は高校時代はなにもなく、そのままに終わった。

彼女が短大へと進み、僕は高校に残った。この時、なんで彼女が同級生でなかったのかと悔やんだ。彼女との接点は毎週やりとりした手紙と時おりかける電話だけ。手紙は往復に1週間かかり、ちょっと書く時間がないと返事が遅れ、気分が落ち着かなかった。電話は家の近所の公衆電話を使ったが、あっという間に十円玉が消え、もっと話したいのにタイムアウトとなった。むこうも同じで、時々僕の家に電話をもらったが、あのいやなビーというコイン切れの音とともに会話が切れた。だけど、この不自由な環境が僕と彼女の結びつきを強くしたのは間違いない。手紙にはお互い胸の内を素直に書いたし、たまには読んでて恥ずかしい内容のものすらあった。顔を見合わせていればとても言えないようなことまで平気で書きあった。
僕の母親は頻繁に届く女性名の手紙と電話に良い顔はしなかった。「誰?」と聞かれたが、無視し続けた。ところが田舎は狭くてすぐ相手がばれた。「母さんはあまり賛成できない」とある日言われた。いわく、彼女の実家が旅館で水商売である。高校生のあなたが年上の女性と付合うのはいかがなものか等々、僕は母子家庭だったから息子に変な女が付くのを恐れたのかもしれないが、旅館を水商売と決めつけること、年上は良くないと言う母親にカチンときた。僕は「阿呆なこというな、べつにかまわんだろ」と逆らい、「来た手紙を隠したり捨てたりしたら許さんぞ」と釘をさした。
戦前生まれの僕の母親は妙に潔癖症なところがあって、そのころ創刊された日本版PLAYBOYの創刊号からそろえていたものを、勝手に捨てたことがある。ヌードが載ってることが気に入らなかったらしい。ヌード写真に興味もあったけれど、それ以上に僕はインタビュー記事や毎号、現代アメリカ文学作家の短編小説が初訳で読めたから買っていただけだ。その記憶から手紙を処分されてはかなわないと思った。
幸いにして手紙が消える事はなかったが、昔の感覚で恋愛イコール不純とみなす母親の文句は僕が大学にいく寸前まで続いた。家を出る日になって、やっと諦めたのか「彼女と付合うのは許すけど、責任をもって付合うこと。あんたも子供じゃないから分かっているだろうけど、軽々しいことをしたらあかんよ。あとで母さんに泣き付いても知らんよ」とだけ言われ送り出された。

僕が大学生になって大阪に出て、やっと彼女に追い付いた。1年間のブランクの間、彼女の短大の夏休みとかに会ってはいたものの、ほんのちょっぴりのデートと手紙と電話ではやりきれなかったのも事実。彼女は神戸で下宿していたから、僕の下宿とはちょっと距離はあったが、会おうと思えばすぐ会えるようになった。しかも、二人とも親元を離れているから親を気にすることはない。難点と言えば、彼女の下宿が門限にうるさかったことだ。夜10時までに帰っていないと中に入る事が出来ない。だからいつも時計を気にしていた。
待ち合わせ場所はだいたい大阪駅の1番ホームだった。双方の下宿先からちょうど中間点となり、そこから電車であちこち出かけることが出来たからだ。
僕が進学してから彼女と初めてのデートは京都の嵐山だった。その日は朝から雲行きが怪しく、いつ雨が降ってもおかしくない天気だった。春休みに双方の都合で会えなかったので、僕は浮かれ気分で出かけた。大阪駅には待ち合わせ時刻より30分も早く着いた。環状線のホームから急ぎ足で1番線ホームへ向い、階段を駆け上がった。まだ来てないだろなと思いつつホームに目をやると、行き交う人の間、ホームのちょうど中間の柱のそばで文庫本を手にし、腕に傘をかけて立っている彼女の姿を見つけた。僕はしばらくそのまま少し離れて見ていた。見なれた顔のはずなのに、ものすごく新鮮に感じた。素敵な横顔だった。本を読むのに夢中になっているのか顔をあげようともしない。時々、本から視線を外し、腕時計を少し見ては戻すことをくり返している。ゆっくり近づいていくと、彼女がふっと顔を上げた。それまで唇を固く閉じ、本に集中していた表情が一気に笑顔に変わるのが見えた。「声かけてくれたらいいのに」僕の方をむくと開口一番そう言った。僕は嬉しくてただただ彼女を見つめていた。
京都行きの電車に乗ってから、彼女は大阪にめったに来ないから早めに出たら、1時間も早く着いてしまったといって笑った。僕にはそばに来るまで全く気付かなかったともいい、久しぶりにあったら私服になっただけで高校時代のままだったと付け加えた。彼女も1年間神戸で過ごしたにも関わらず、少し化粧しているほかは何も変わっていなかった。京都に着くまでシートに並んで座り、周りの乗客に聞こえないよう気にしながら、離れていた間の話をした。彼女に叱られた手紙のことを話すと、「そりゃ、そうでしょう。気分悪かったよ。まるであなたがモテたことを自慢してるみたいに感じた。返事出すのやめようかなって思った」彼女は少し僕をにらんだ。その手紙とは僕が卒業式の日、下級生の女の子から告白を受け、制服のボタンを持っていかれたことを綴ったものだった。どうしよう?という相談のつもりで書いたのだが、どうもそれが気に触ったらしい「そんな話を書かないで。下級生からの告白はちゃんと断わったんでしょうね?私だけ見ててほしいな」と返事がきた。「あの時、やきもちやいてくれました?」僕が笑うと「今日、出かけるのもうやめるよ。そんな風に言うのは嫌だな」彼女はちょっときつい目で僕を見て、ひじで軽く脇腹を突いた。それからしばらく無言になって、京都駅のホームに降りてから「黙ってしまってごめん。やきもちやくのはダメ?」彼女が小声で聞いてきた。僕は素直にあやまった。彼女は気の強いところがあって、納得いかないと必ず怒って僕は叱られていた。そのことに不満はなかった。叱られる原因は僕が作り出していたからだ。そんな反面、彼女には叱っても必ず後であやまってくるちょっと気弱な部分もあった。気は強いけれど、それを補うかのようにふっと見せる弱さと相手を気づかうやさしさを持ち合わせていた。そんな彼女に接していると僕はとても安心することができた。

山陰線に乗り換え、嵯峨駅に着くと雨が降り出していた。僕は傘を持っていなかった。傘を買おうと売店に引き返そうとしたら、彼女が自分の傘をすっと差し出してきた。「一緒に入ればいいんじゃない?」。
一つの傘で並んで歩くのは初めてだった。うれしかったけれど、周りの視線が気になった。特に男ばかりのグループなんかとすれ違う時には向こうがあきらかに彼女を見ているのが分かった。彼女は誰が見ても可愛い。高校時代、男の上級生の間ではファンクラブがあったと聞いていたし、僕の同級生の間でも話題になることがあったから、間違いない。そんな彼女を持った僕は内心、自慢に思っていたが、視線はやはり気になった。
駅から少し歩いて立ち止まり「どこからまわります?」僕は聞いた。「あなたの行きたいところでいい」彼女は微笑んで僕を見た。
彼女は僕のことを最初は君付けで呼んでいたが、気持ちを伝えあってからは「あなた」に変わっていた。なにか気恥ずかしかったが、いつの間にか慣れた。僕は彼女と話す時どうしても言葉が謙譲語になった。彼女が年上だということを意識し過ぎていた。彼女に何度も「変だよ。やめた方がいい」と言われ、やがて普通に話せるようになったが、この時はまだ無理だった。
とりあえずお寺をまわろうと歩き出した。二つ三つお寺を回って、次のお寺へ足を向けた。雨は降り続いていた。小さな傘に二人で入っているため、腕は触れっぱなしで、さらに彼女が僕の方にふり向くと胸が腕に軽く触った。彼女は気にしていない風だったが、僕はどきどきしていた。何度か手をつないだことはあったが、それは周りに誰もいない時だけだった。人前では恥ずかしくて出来なかった。
今のお寺はどうだったとか話ながら歩いていると、突然「えーっ」という声が聞こえた。びっくりして前を見るとそこに高校で同じクラスだった女の子がいて、こっちを指差していた。3人連れだったが他の子は知らない顔だった。「ウソ〜」同級生はさらに声をあげる。僕はまずいと思った。同級生は彼女と同じクラブにいたから僕のとなりにいる彼女を知っている。これまで隠していたことがこれで一気に知れ渡ってしまう。僕はあせった。「うわあ〜Y君、Sさんと付合ってたんだ」同級生は僕の目の前まできて驚いた表情で言った。信じられないという表情だった。彼女はどうかと横を見ると微笑み、小さくうなずいた。いいんじゃない。そう無言で僕に伝え、「こんにちわ、おひさしぶり」同級生と挨拶を交わした。僕はあっけにとられ、その光景を見ていた。まさかこんなところで知った顔に会うとは思ってもみなかったのだ。
「じゃあ」そう言って逃げるしかなかった。少し離れてから振り返るとまだ僕らを見ている。これはまずい。
後日、同窓会に出るとほとんどの女の同級生が僕らのことを知っており、「いつから?どうして?」と興味津々で聞かれた。答える気はないから適当に誤摩化したけれど、彼女が女生徒の間でも人気者だったことを知った。幸い男の間で広まっておらず、これは助かった。口の悪い男どもに知られるとロクな事がない。
「見られた」彼女に苦笑しつつ僕は言った。「いつかはばれるでしょ。いいんじゃない。悪いことしてるわけじゃないし」彼女は気にするようでもなく、あっさり言って、にっこり笑った。

1日中、嵐山周辺を歩き回り、夕方、大阪まで引き返してきた。駅の喫茶店で夕食を食べて、街に出ると雨は上がって、路面も乾いていた。ネオンサインが輝きはじめ周囲のビルに明かりが点った。僕と彼女は中之島公園まで歩いた。暗さも手伝ったのか、といってもけっこう街明かりもあったのに、彼女が少しためらう素振りの後、僕の腕に自分の腕を回してきた。僕は少し照れくさかったが、まわりのカップルもみんなそうだったから、あまり恥ずかしいとは思わなかった。僕はなにかこれまで出来なかったことを今日、どんどんやっているような気がした。組んだ腕から伝わる暖かさに、彼女がまぎれなくそばにいると感じていた。
初めて手に触れた時、彼女の頬が赤く染まったのを覚えている。あれは山に出かけて吊り橋を二人で渡った時だ。川面まで結構高くて、高いところが苦手な彼女が動けなくなった。仕方なく手を伸ばしたのだが、手のひらを握ったとき、彼女は真っ赤になっていた。それから何度か手をつないだりしたが、人のいる場所では絶対できなかった。僕も彼女も人に見られるのが恥ずかしかった。だからいつも少し離れて歩いていた。
少し暗くなった人気のない場所で並んで川を眺めた。「今日は楽しかった」とりとめのない話をしながら、ときどき顔を見合わせて笑った。
話が途切れた。彼女が少し僕を見てからゆっくり体をよせてきた。「さみしかった。1年間、ほとんど会えなかったから」僕は何も言えず、肩を抱きよせ、彼女を見た、彼女も僕を見ていた。大きな瞳が潤んでいるように見えた。ほとんどまばたきもせず、じっと見ている。言葉が出なかった。しばらく見つめあった。僕は思いきって顔を寄せた。逃げない。それまで開いていた目が閉じられた。抱き寄せている僕の手がふるえているのが分かった。彼女も体を固くしていた。顔はさらに近づき、僕も恥ずかしくなって目を閉じた。そして唇が重なった。夢にまで見た彼女とのキス。初めて触れた唇は柔らかくて、その瞬間は記憶がとんだ。唇を合わせただけの短いキスだった。「大好きだ」それしか僕は言えなかった。彼女は僕の肩に頬を当て「私も」とつぶやいた。僕と彼女の初めてのキス。ここまでたどりつくのに2年かかっていたが、この日、二人の距離は一気に縮まった。僕はそのことを無上の幸福と思えたし、彼女も「うれしい」と何度も言い、しばらく僕にしがみついたまま動こうとしなかった。
彼女を駅まで送り、次に会う約束をして見送ると今日の感動が蘇ってきた。何もかもが嬉しかったが、キスは特別だった。まさか今日するとは思ってもみなかったから、正直いって戸惑っていた。キスってあれでよかったのか?映画なんかだともっと長いよな。以前、読んだ小説では舌をどうとか書いてあったぞ。初めての経験は分らない事だらけだった。彼女が駅までの道中、黙っていたのも気になった。キスしたことに怒ったのかとも思ったが、後でうれしいと言った。よく分らなかったけれど、とにかくこれで少しは恋人らしくなったと感じた。次のデートの前に彼女から手紙が届いた。初めてのキスは最高の気分で出来て、素敵なキスだったよ。と書いてあった。

それからは頻繁に会った。お互い学生だから授業の都合とかで会えないこともあったが、ほぼ毎週、日曜日に会っていた。平日は双方の下宿が遠すぎたため、会っても時間がほとんど取れないこともあって、ほとんど会えなかった。電話と手紙で会えないことをカバーしていた。
いろんな所へ行った。二人で過ごす時間はいつも楽しくて、笑いが絶えなかった。わがままな行動をとりがちな僕に時たま彼女がふくれることはあったが、喧嘩は不思議としなかった。その日が終わってみると、元通りだった。いつも別れ際に抱き合ってキスをした。その時間はどんどん長くなって、彼女の下宿の門限ぎりぎりになることもしばしばだった。ところが、それ以上は出来なかった。
一回だけ彼女ともう一歩前へ進みそうな状況になったが、彼女は拒んだ。その時ちょっと二人は気まずくなった。「ダメ。もう少ししてから・・・」彼女に釘をさされ、それ以降、僕は彼女を思いきり抱きしめ、体に触れてみたいと思っていたのに、行動に移す勇気が出なかった。変に迫って嫌われることを恐れていた。今の状況に満足できていたし、そういったことは時間が解決する。いずれ彼女も受け入れてくれるだろう。それからでも遅くないと自制した。僕には彼女がそばにいてくれることが一番重要だったし、彼女の僕に対する気持ちを大切に思っていたから、無理強いすることは出来なかった。
大学の同期の連中は猛者が揃っていて、ほとんど同棲状態のやつもいた。多くが高校時代に僕が今になってやっと出来たことを済ませてしまっていて、それ以上の事もさも当たり前のように話した。僕にあせりはなかったが、いつかはみんなと同じようになりたいと思った。その相手は彼女しかありえなかった。
ときたま友人から合コンに誘われた。酒を飲んで馬鹿騒ぎするのは苦手だったし、奨学金だよりの僕には余分な金もなかった。そして、なによりも僕には彼女がいたから参加する意味がなかった。彼女は短大に進んで間もない頃に友人にしつこく誘われて行ったものの、初めて会う男たちがやたら親し気に声をかけてくるのがイヤで逃げ帰ってきたとその日に電話してきた。「あなたと会ってる方が楽しい」と言われ、その時、まだ高校生だった僕にはその言葉が照れくさく感じられたものだ。
彼女の二十歳の誕生日、僕はそのころから始った、花の宅配を利用して年齢分の真っ赤なバラを贈った。花屋で届け先を告げるのが恥ずかしく、メッセージカードには自分の名前をアルファベットでサインすることしかできなかった。おまけにバラは予想以上に値段が高くて、その後の食費の捻出に苦労することになったが、それでも僕は彼女をちょっと驚かせたかった。何も知らせず贈ったから、届いた日にすぐ電話がかかってきた。彼女はものすごく喜んでいた。「涙出ちゃった」途中から震え声になってしまって、僕はうれしいながらも少し当惑し、やりすぎたかなと思った。
彼女と楽しく過ごした1年はあっという間に過ぎた。
彼女が短大を卒業する日が近づいてきた。彼女は卒業後大阪での就職を希望していた。内定もとり、次に住むところを頼まれて僕が探して確保してきた。ところが、突然、実家に帰ることになった。家族の猛反対を受け、帰らざるを得なくなったのだ。彼女は親に内緒で大阪での就職を決めていた。そこには僕と一緒にいたいという仕事とは別の彼女の希望があった。親を説得したものの駄目だった。僕との事は彼女の親は知らなかったが、勝手に就職を決め、一人暮らしをするのは絶対許さないと言われたらしい。父親に連れ戻すとまで言われて彼女は折れた。親に逆らってまで押し切る勇気を彼女は持てなかった。彼女から何度もごめんなさいと言われ、僕も納得したが、また離ればなれになると思うと悲しかった。

彼女が実家に帰る前日に会った。本当は見送りをしたかった。しかし、親が迎えに来るというので諦めた。その日はほとんど彼女があやまってばかりいた。離ればなれになるけど、きっと大丈夫とくり返した。すでに経験しているし、さみしいけど我慢できると強く言った。僕は卒業までまだ3年あり、卒業後はどうなるかわからない。仕事だってあるのかどうか。彼女は大丈夫だと言うがものすごく不安だった。なにか保証がほしい、それが何か考えてきていたけれど、なかなか言い出せなかった。
その日は公園のベンチで夜遅くまで話をした。日が暮れ、少し寒かったが、二人の話を誰かに聞かれるのが嫌で、ずっと公園にいた。僕は彼女に聞いた「絶対、大丈夫?」。彼女はうなずき、僕を見た「心配ない。私はあなただけを見てるから」唇を固く閉じ、真剣な表情でジッと見つめられると、少しだけ不安が消えるように思えた。僕は思い切って、ほかに言いようがないからダイレクトに伝えた「抱いてもいいですか?」謙譲語になっていた。彼女と付き合い始めた頃に戻っていた。
「今日?」彼女の返事に僕は驚いた。まさか。
「いいよ。だけど今日は無理かな。少しだけ時間を下さい。急に言われても困る」と彼女は小声になり、僕に体をあずけ、頬を寄せてきた「わかってた。あなたが我慢してたこと。大切にしてくれてると思ってた。そのことが嬉しかった。応えてあげたかったけど、勇気なかったし、女の子には一大事でしょ。いずれって思ってたけど今日まで来ちゃった。ごめんなさい」いきなり彼女の唇が押し付けられた。長いキスだった。いつものように笑顔で誤摩化されると思っていたのに、突然のキスにはびっくりした。
彼女の返事とキスに僕は安心した。そして彼女をこれまで以上に愛おしく思った。また離れてしまうけれど、きっと大丈夫だ。上手くいく。自信が持てた。

彼女が社会人になって、再び、電話での連絡と手紙の交換が始った。自動車の免許を取った。会社のサークル活動に入ったなど、彼女は近況を途切れなく連絡してきた。僕は楽しそうな電話の声と、手紙の文面に元気でやってると感じていた。1ヶ月に1回、彼女が大阪に出てきてデートした。五月の連休と夏休みには僕が地元に帰って会った。彼女が実家に帰る日に交わした約束は保留されたままだった。当時、僕は仕事をしながら大学に通っていて、実家に帰っても、仕事の都合でわずか半日しか時間がなかった。彼女が大阪に来ても日帰りで、これは外泊を彼女の親が許さなかったためだ。二人は会って話をすることと街を歩くことに時間を費やした。その後は時間がとても足りなかった。だけど、僕はあせっていなかった。これまで彼女は約束は絶対守ってくれたし、別れ際の彼女からのキスに彼女が約束の延期を詫びているように感じていた。
僕の誕生日に彼女はパーカーの万年筆とボールペンのセットを贈ってきた。メッセージカードには「夏のボーナスで買ったよ。えらいでしょ」と書いてあった。以前、「いいな、欲しいな」と僕が言っていたのを覚えていたのだ。僕はその日、二十歳になった。学生生活は忙しくなっていた。3回生へ進級するための審査を控え、作品作りに没頭する毎日が続いた。彼女への手紙は書き続けていた。もちろんプレゼントの万年筆を使って。ところが、秋から冬へと季節が変わる頃、彼女からの返事が2週間も途切れた。月に1回のデートも中断した。気になり電話をしても疲れた声で「仕事が忙しくなって・・・」と言い、会話はすすまなかった。僕は彼女の言葉に変化を感じた。これまでにはなかったことだ。本当に仕事疲れだけなのか、なにか隠しているような気がした。気になって何度も電話をしたが、留守だったり、出ても寂しい声で話すばかりだった。1ヶ月ぐらい経って手紙が来た。その文面は手紙が途切れたことをあやまり、あなたが大好き、ずっと好きでいてほしい、愛してる。と文章の端々でくり返していて、普段の彼女ならまず書きそうにないものだった。愛してるなんて言葉も今までは使わなかったはずだ。
どういうことだ。僕は彼女に直接会って聞きたかった。どうにかしないと駄目だと思いつつ、大学も仕事も休めず、日はまたたく間に過ぎた。僕は年末からインドに出かける予定でいた。初めての海外旅行に気分はわくわくする反面、彼女の事が気になってしかたがなかった。手紙のやりとりは再開されていたが、彼女からの手紙はこれまでになかった雰囲気の、近況報告がないラブレターみたいな内容のものばかりになっていた。あまりにも変な感じがした。

金曜日の夜遅く、彼女から電話があった。「明日、大阪にいくから会ってほしい。最終の船で行くから」とだけ僕に伝えて切れた。最終の船?しかも土曜日にやってくる。初めての事だった。僕はその時、いつもの習慣で帰る時どうするんだなんて心配した。深夜には帰りようがない。
翌日、港まで迎えにいった。日は暮れ、港の水銀灯だけが明るかった。知った顔に会うのはイヤなので、僕は下船口が見える防波堤の影で彼女を待っていた。最終の船はこの日、乗客が少なく、彼女が降りてくる姿はすぐ見つかった。「ごめんね。突然出てきて」彼女は僕の前に立つと少し頭を下げた。親には神戸の友だちのところに行くと言って出てきたといった。久しぶりに見る彼女はコートを着ていて体全部は見えなかったが少し痩せたように感じた。手にしたバッグがまるで家出してきたみたいだった。僕を見つめる笑顔はそんなに変わってなかったものの、元気さが感じられなかった。彼女に腕を取られ、歩き出したが彼女はいつもより強く腕を組んだ。「どうしたの?」僕は聞いたが、彼女はとにかく僕に寄り添い、時々、僕の方を少し見るだけで何も言わなかった。食事を済ませていなかったので開いていた喫茶店に入り、軽い食事を取ったが、どういうことか彼女はまだほとんど話をしなかった。地下鉄に乗り、天王寺に出た。取りあえず公園のベンチに座った。どうする。時計の針は夜10時になろうとしている。「今日、あなたのところに泊めてね?いいでしょう」彼女は小声だけど強く言い、僕の手を握った。僕はその言葉を予測していたけれど、実際に聞くと胸は高鳴り、息苦しくなった。泊めるのはいいが、下宿の惨状を見られると思うと、掃除しておくんだったと変に冷静にもなっていた。僕は彼女を立たせ、駅に向かって歩いた。今日は絶対、最後までいく。彼女の言葉と態度からそんな予感がした。

天王寺から僕の下宿までは40分ほどかかる。電車は満員だった。立ったままになったが、彼女は持っていたバッグを2人の間の床に置き、体を寄せて僕の両手を取ると手のひらを握り胸の位置までもっていった。電車がゆれる度、彼女の胸の柔らかさを感じた。周りに人のいる時は彼女はまずこんなことはしなかった。僕も恥ずかしくて出来なかったが、今日はいつもと違う彼女に少し戸惑っていて、なすがままになっていた。
下宿の最寄り駅で降り、そこから歩いた。彼女のバッグは僕が持った。下宿までは10分ほどだ。満員電車にもまれ、僕も彼女もうっすら汗をかいていた。寒い風にみるみる体が冷えていくのが分かった。
僕の住む下宿は二階建てのおんぼろ文化住宅で、一階と二階の部屋をそれぞれ分けて4人が住んでいた。外から見ると全ての部屋の明かりが消えていて、誰も帰っていないのが分かった。部屋は2階にあった。玄関にはカギなんかかけてないから、そのまま入り、彼女を僕の部屋に通した。万年床にコタツを起き、周りには雑誌や大学で使う材料が乱雑に置かれた部屋。さすがに彼女も唖然としていた。「男の人の部屋ってみんなこうなの」。僕は急だったから掃除していないと言い訳をし、とにかく彼女の座れるスペースをガラクタを部屋の片隅に押しやって作った。彼女は笑っていた。僕は彼女がやっと普段の笑顔にかえったかなと思った。
ストーブはないからコタツのスイッチを入れ、彼女に入るように勧めた。「お風呂ないの?」彼女が小声で聞いた。「ごめん。銭湯なんだ」僕が答えると彼女は行ってくるから場所を教えてといい、バッグから小さな手提げ袋を取り出した。時計を見ると11時を回っていた。銭湯は12時までだ。僕は急いで近所の銭湯まで彼女を案内した。この日は、どんどん彼女が僕を引っ張っている気がした。どうしたんだろう。
僕も銭湯に飛び込み、湯を浴びた。彼女に少しだけ部屋を片付けておいてほしいと言われたから、上がると部屋に引き返し、布団の周りを片付け、また銭湯にとって返した。彼女が外で待っていた。

再び部屋に帰ると、僕は彼女を抱きしめた。もう遠慮はしないと思っていた。その時だ、ガラガラと玄関が開く音がして「誰やねん。女、連れ込んだのは」階下に住むTの大声が聞こえた。しまった。帰った時、明かりがついていなかったから彼女の靴をそのままにしていた。階段をどかどか上がる音が聞こえ、乱暴なノックの後、ドアが開かれた。僕と彼女は慌てて体を離し、コタツに飛び込んで向き合った。
「なんやYのとこかい。すんません。お邪魔しました」Tは部屋の中にいた彼女に気付くと、ドアを閉め「彼女の靴、上へ持ってあがれや。他の連中が見たらうるさいぞ」と言った。
Tは僕に彼女がいることを知っていた。彼女からの手紙を1階にある郵便受けの中から僕のところへ運んでくるのが彼だった。一度だけ彼女の写真を見せたことがある。高校時代にもらった写真だ。「ええのー。可愛いやないか」Tは荒っぽくて口は悪いがやさしいやつだった。「女は大事にせなあかん」が口癖だったが、本人に彼女はいなかった。靴を取りに降りていくと、Tが自室から顔を出し、無言でVサインを出した。僕はそれがおかしくて、思わず笑ってしまった。Tは「静かにな」と言って顔を引っ込めた。
「凄いところね。びっくりした」靴をもって上がった僕を見て彼女は笑ったが、なんとなく陰りのある笑顔だった。僕はもう一度、彼女を抱きしめた。彼女の腕が僕の背中に回されて強くしがみついてきた。「明かり消して」遠慮がちに彼女が言うまで我を忘れ思いきり抱きしめていた。コタツの中じゃ変だと思った僕はコタツをどけて布団だけにした。明かりを消すと、布団の上に座った彼女が服を脱ぎはじめたのが暗がりの中で薄く見えた。え?自分から?僕は「待って」と言おうとしたが言葉が出ず、無言で見ていた。その動作はゆっくりしていた。下着をはずした。目が慣れたのか、彼女の白い肌が目の前に見えた。僕はなにもいえず、ただ見ているだけだった。いつか見たいと思っていた彼女の裸の姿がすぐそこにある。思ったより細くて、胸の隆起と腰のくびれが目に焼き付いた。腰から下に目をやるのはためらわれた。僕は彼女の前に膝をついた。彼女は腕を伸ばすと僕のシャツのボタンをはずし、脱がせた後、少しためらってジーンズのベルトに手をかけた。僕はあわてて自分で脱ぎ、そのまま彼女を布団に押し倒した。掛け布団を引き寄せ中に潜ると、唇を合わせ、強く抱き寄せた。直接触れる彼女の肌は柔らかくてすべすべしていた。想像通りだった。どうやって彼女と一つになったのかはよく覚えていない。夢中だった。暖かな中に僕自身が包まれたそんな感じだった。全てが終わった後、彼女は僕の背を両腕で抱いたままじっとしていた。僕は彼女の胸に顔を埋めていた。彼女が耳もとでささやくように言った「初めてだった?」。僕はこうなることをずっと夢見ていた。気分は最高だった。彼女もそうでなかったか?なぜそんなこと聞くんだ?。

何か熱い流れるものを寄せた頬に感じた。体を起こし彼女を見た。彼女は僕を見上げていた。大きな瞳から大粒の涙が流れていた。「ごめん。わたし初めてじゃない。ごめんなさい」その声は震え、なにかにおびえているかのように小さかった。僕は背筋が寒くなるのを感じた。それまでの感動がすべて消し飛んでしまった気がした。手紙が途切れた時、悪い予感がしたが、まさか。
彼女は体を起こして僕にしがみつくと声をあげて泣きだした。何度もあやまりの言葉を言い、「ウソ言えないから。いまさら言ってもどうにもならないけど」肩を震わせていた。涙が僕の胸を伝って流れるのがわかる。僕は呆然となっていた。何故?とも聞けず、どう言って良いものか、頭の中は混乱していた。ずっと大切に守り続けていた宝物をどこかの誰かに奪い去られた。そんな気がした。
「信じていたのに、どうして」それだけしか言えなかった。黙ってしまった僕に彼女は不安を感じたのだろう。ますます激しく泣いた。泣きながら彼女は説明した。会社のサークルの旅行先で酒を飲まされ、酔って自分の部屋にもどったところを後を追ってきた男に襲われたことを。
「恐かった。逃げようとした。でも・・・・・」彼女の声は嗚咽に変わり、後が続かなかった。彼女が会社でしつこく男から交際を求められたことは知っていた。彼女には無視したほうがいいと僕は伝えていた。サークル旅行に行くと言った時、反対した。そんな男がいるのに危険だと思ったのだ。ところが、彼女はみんながいるから心配ない、それに交際を迫る男はこないから大丈夫だと言った。ところが・・・危険なやつが他にもいた。彼女の旅行中、ものすごく心配だった。彼女の手紙が途切れたのはその旅行の後からだった。やっと理由がわかった。彼女は旅行中に起きたことを僕に知られたくなかったのだ。隠そうとした。しかし、彼女はウソをつけなかった。彼女は人を騙すことができない人だった。あまりにも正直だった。
「だから言ったんだ。冗談じゃない。こんなのひどすぎる。僕がなんのために我慢していたか知ってたはずなのに」僕は彼女が必死の思いでうち明けたであろうことを考えもせず、我を忘れてしまい、言ってはいけないことを言ってしまった。声が大きくなった。彼女はびくっと体を震わせた。僕は初めての経験は彼女とする。彼女もそうだと信じ込み、疑いもしていなかった。
彼女は僕から腕を外し、少し離れた「許してもらえなくてもいい。馬鹿なのはわたしだから」そう言って彼女は顔を両手で覆った。涙がぽろぽろ落ちていた。その姿を見ると僕はいたたまれなかった。涙が出た。どうすりゃいいんだ。彼女がここに来て、僕に打ち明けるには悩み、勇気がいったはずだ。僕にウソを言って騙すこともできただろう。でもそれが出来ずに僕の前にいる。

無言のまま時間が過ぎた。暖房のない部屋は冷え込み、裸のままだったから二人とも体は冷えきってしまっていた。僕は時間とともに落ち着いてきた。少し冷静に考えられるようになった。今、僕が彼女を慰め、守らなければショックを受けた彼女の心は壊れてしまう。今、彼女にとって唯一の逃げ場は僕のはずだ。
「もういい。今、聞いた話は全部忘れる。くやしいけど、しかたない。S美が悪いわけじゃない」僕はその時初めて彼女の名前を呼び捨てにした。「怒ってない?」彼女はうつむいたままだった。「S美が大好きだから怒れない。恐い目に合わせたのは僕が離れていたせいだ。ごめん、さっきは大声出して悪かった」僕は彼女を抱き寄せ、横たえて二人で布団をかぶった。彼女の肌は冷えきっていた。「風邪ひいたら大変だ。もう泣くのはやめて笑ってほしいよ。忘れたほうがいい」僕と彼女はもう一度一つになった。彼女は僕に「許してくれる?」と何度も聞いた。僕はうなずいた。しかし、彼女の身におきた仕打ちを「忘れる」と言ったものの、今触れている肌を他の男が僕よりも先に触ったと思うと、むしょうにくやしく、やりきれなかった。彼女を大好きで愛してることは間違いない。守る自信もある。だけど今一つ割り切れない。彼女にその胸の内を見せる訳にはいかないが、釈然としないのも事実だった。彼女の話にウソはないだろう。だけど彼女に隙はなかったのか?なんで酒を飲んだりなんかしたんだ馬鹿。僕の言葉に安心したのか静かに寝息をたてはじめた彼女の横顔を見ながら、僕は眠れなかった。これからどうなるんだろう。僕は今日、聞いた話を忘れ、ふっきれるだろうか?

日曜日、夜のことを忘れようと僕と彼女は街に出て久しぶりに思いきり遊んだ。なんとなくぎくしゃくした感はあったものの、彼女はいつもの笑顔に戻リ、僕もそうだったと思う。彼女が帰る時間がきた。僕はこれからの事を話しながら、彼女から聞いたイヤな話は忘れよう。そればかりを考えていた。
彼女を見送り、下宿に帰るとTが僕の部屋にやってきた。「なんやねん。やかましくて寝れんかったやろ」Tは彼女の泣き声と僕の大声に何がおきたのかと気になって眠れなかったらしい。たぶん彼女の話も聞こえていたはずだが、Tはそのことについて何も言わなかった。「女、泣かしたらあかんぞ。彼女に大声だすのはヤメとけや。みっともないやろ。しっかりせんかい」そう言い残して部屋を出ていった。そのあと他の部屋に住む連中からも「彼女を泣かすな」と叱られた。階段の踊り場を隔てただけのとなり部屋の同期からは「おまえ、もっとちゃんとしろや。彼女を部屋に呼ぶのはかまわんが、泣かすのだけは勘弁してくれ。気になってかなわん。帰ってきたら女の泣き声がドア越しに聞こえてきて、びっくりしたぞ。ま、うまくいったみたいで安心したけどな」丸聞こえだったと知らされ「可愛い彼女を泣かすな。お前次第だと思うぞ、守ってやらんとどうする」真剣な表情で言われた。どうやら、どんな相手かと気になって僕と彼女が下宿から出ていくところを窓から見ていたらしかった。僕は下宿に同居する連中に何もかも知られたと悔やんだ。彼女に恥をかかせた気分になった。ただ嬉しかったのは、みんながその夜のことを言ったのはその日だけで、あとは知らんふりを決めてくれたことだ。

初めての一夜を過ごしてから、二人の気持ちのつながりはより深くなったと思う。それからは会う度に体を合わせた。彼女は拒むことなく僕を受け入れてくれた。ただ、彼女の肌にふれるたび、うれしく感じていると同時に僕の心の中で彼女の話が蘇った。彼女の話を信じていたが、疑念がわいてしかたなかった。どうして大声をあげるとか、逃げなかったのか?僕は彼女が受けた恐怖の事を考えもせず、彼女を責めていた。忘れろ、そんな気持ちを彼女に知られたらどうする。心の片隅に澱をかかえたまま僕はインドに旅立った。

目の前を葬列が通った。白い布に包まれた遺体は人間ではなくただの荷物に見えた。積み上げられた薪の上に載せられ火がつけられた。藁から木に火が燃え移り、白い布から煙りがあがりだす。火葬を直接見るのは初めてだったが、それは人の亡骸を送る儀式というより、単に処分しているだけのように見えた。
空しく見えるが、人は死んでしまえばそんなものだ。今、生きている瞬間が人間にとって一番重要だ。小さなことにくよくよしてぼーっと景色を眺めているだけの今の僕は亡骸と一緒じゃないか。

僕は結論を出した。どう考えても、彼女が大好きで愛していることを偽れない。僕の相手は彼女しかいない。彼女が初めてでなかったことが、どれほどのものか。もし、彼女が他の男と付合っていてなにもかも済ませた後で僕と知り合ってたら、愛せないのか?違うだろ。彼女の人としての素晴らしさに惚れるんじゃないのか。彼女は僕のために守ってくれていた。その気持ちを僕は分かっていたはずだ。あの夜、彼女は僕に救いを求めてきた。自分が悪い訳でもないのに僕に嫌われることすら考え、必死だったはずだ。大粒の涙をあれだけ流す彼女を見たのは初めてだった。あの涙を信じられないか?彼女が受けた心のダメージを取り除き、守ってあげるのが僕の役目だろ。あの日、彼女は僕を約束通り受け入れてくれた。僕は彼女の心も体も一人占めすることができたじゃないか。これまでだって誰が見たってベストと言える彼女をずっと独占していただろ。何を贅沢言ってるんだ。どこに不満がある?彼女が僕の気持ちに応えたため、泣いたヤツだっていっぱいいたはずだ。僕は彼女の存在が僕にとって、何ものにも替えようがないことにやっと気付いた。
手にしていた花束をガンジス川に投げ込んだ。ふっきれた。もうくだらないことを気にするのはやめた。頭が軽い、熱は下がってきたようだ。無性に彼女に会いたくてたまらなくなった。

出発前、彼女は僕の帰国する日には時間を取って空港まで迎えに行くと言った。僕はわざわざ遠いところを出てきてもらうことに気が引けて「無理しなくてもいい」と答えたが、彼女は「必ず行く」と言って聞かなかった。その気持ちがうれしかった。その時ある約束をした。
ニューデリーを深夜に出発したエアインディアは途中の経由地のバンコクで4時間もの遅れが出た。日本到着も予定時刻より、かなり遅れることになる。彼女は待っててくれるだろうか?あまり遅くなると家に帰れなくなってしまう。あきらめて帰ってしまうかも、いやそんなことはない。彼女は待ってると言ったら必ずこれまでも待ってくれていた。会いたい気持ちは日本が近づくにつれ高まっていった。やっと到着した。入国審査、税関と長くかかる時間にイライラしながら、手続きを終えると荷物を抱えて空港の出口を飛び出した。
彼女の姿が見えた。僕を見つけて笑顔で小さく手を振っている。待っていてくれた。
僕は出発前の彼女との約束「お土産はいらないから帰ってきたら映画のように私を抱きしめて」を忠実に守った。周りの人の視線なんか気にしなかった。映画のように格好良く出来なかったものの、思いっきり抱きしめた。さすがにキスはできなかったけれど、彼女の柔らかさと温もりを腕に感じ、僕を見上げる彼女の笑顔にふるえるほどの幸せを覚えた。絶対、離しはしない。心の底からそう思った。

・・・・・・・・・・・

その後、僕と彼女の関係は2年間続いた。その間に僕が卒業して仕事にありつけて、一緒に生活できるようになったら結婚しようと約束した。僕がその話を切り出した時の彼女の表情を忘れはしない。喜びに輝き、何度もうなずいていた。が、僕が就職を決め、卒業するとほぼ同時に終局が訪れた。
手紙がきた。秋に結婚することになったと書かれ、最後にごめんなさいと一言。僕とのことが親に知れ、彼女の周りに僕の周りも巻き込んだ大変な騒ぎになっていた。とにかく反対の嵐で、僕も彼女もお互いが好きだという気持ちに変わりはなかったけれど、追い詰められていた。特に彼女は親から勘当するとまで言われ、精神的にも相当まいっていた。だけど、まさか、こうなるとは・・・・。
彼女を責めるつもりはなかった。彼女は僕のところへ逃げる事が出来ず、僕も連れ去ることが出来なかった。どうしようもなくなって、彼女は問題を解決するために親から提示された最後の選択に従っただけだ。
初めて好きになった人と一緒になりたい。僕の夢だった。その夢を彼女とこれまで追い続けてきたと思っていた。もう少しだったのに・・・・。結局、僕は彼女を守り切ることが出来なかった。
その日、彼女に最後の手紙を書いた。結婚おめでとう。幸せになってください。たったの1行、それだけを書くのに一晩かかり、やりきれなくて、情けなくなって、僕は泣いた。涙があふれて止まらなかった。

・・・・・・・・・・・

僕は彼女との破局から、1年近く落ち込んでしまって立ち直ることが出来ず、もう女の子を好きになるのはやめようとすら考えた時期もあった。仕事に追われていたこともあったし、それよりも自分のやりたいことを優先させて、心の痛手から逃げようとしていた。
それからさらに1年ほどたって、ようやく気持ちの整理がついたころ、再び彼女と街でばったり会った。少しだけ立ち話をした。彼女は僕の知っている彼女とは別人だった。わずかの年月でここまで変わるか?と思うほどやつれていて、まだ20代半ばだというのに若さも輝きも感じられず、幸せそうにも見えなかった。
「彼女できた?」彼女に聞かれ、僕は黙って首を振った。できる訳ないじゃないかと言いたかったが、口には出さなかった。「早く良い人を見つけてね」と彼女は言った。
「今でも後悔してる」僕が言うと、彼女は「馬鹿・・・・」と寂しく笑いながら言い、少し僕を見つめた後、視線を外して背を向けた。
「馬鹿か」そうかもしれない、僕は馬鹿だよ。まだ未練がましいことを言ってる。だけど不思議に心で思っていたほど彼女を愛しいとは思わなかった。じっと見つめられた時、昔の彼女の姿を思い出した。彼女も後悔してるなと感じたが、今さらどうなるわけでもない。ずれた歯車が噛み合うことは二度とない。たまたまとはいえ、会うんじゃなかった。あんな彼女の姿は見たくなかった。愛しさや後悔よりもあまりにも変わってしまった彼女の姿に僕はただ呆然としていた。