DF50とともに過ごした青春時代
DF50は僕にとって鉄道に興味を持たせるきっかけを作った忘れがたい機関車だ。初めてその姿を目にしたのは中学生の時。遠足で出かけた大歩危で渓谷の崖に張り付くようにして通る土讃線を通過していくのを見た。
それまで徳島線のDE10しか見たことがなかったから、その箱型のデザインに一目惚れし、同時期に入手したばかりのカメラを手におっかけを始めた。
当時の僕には鉄道に関する知識は何もなかったから、DF50は新型の機関車だとばかり思っていた。京阪神の親戚に出かけたおりに目にした電気機関車とよく似たデザインであったから箱型=新型のイメージを持っていた。
しばらくして、本屋で見かけた鉄道雑誌で特集が組まれていて、新型どころか相当老朽化の進んだ機関車であることを知り、その頃にはまだ相当数が現役であったが廃車も出ており、数年後には全廃になることも知った。
高校生になるとバイクの免許を取り、週末には土讃線に通うようになった。土讃線ではDF50は老いたりとはいえ、主力機関車であり、客車列車、貨物列車の先頭に必ず立っていたからだ。四国にいるDF50は全部写真に撮りたいと思っていた。
土讃線通いは今に続く鉄道好きの人たちとの出合いをもたらした。バイクでは行けなかった予讃線や遠く高知の機関区まで同行させてもらった。おかげで僕の鉄道に関する知識はそれらの人たちの教示によって増え続け、鉄道に関する書籍も小遣いの許す限り買い求め、自分の知識を増やしていった。当時、撮影に持っていったメモ帳が今も手元にある。今以上にち密にメモがされ、車輛ごとの形状の違いや編成までメモしてある。
あのころは脇目もふらずDF50を追い続けていた。
そうこうしているうちに、九州(大分機関区)からDF50の姿が消え、関西圏で唯一残っていた紀勢線(亀山機関区)からも撤退した。残りは四国だけとなった。全廃までのタイムリミットは刻々と近づいていた。亀山からの転入車で四国内の老朽車が置き換えられ、それまでの四国スタイルと呼ばれていた前面補強帯のついたタイプにすっきりした前面の亀山車が混じって走るようになった。写真を撮るのも忙しかった。先週走っていたのが休車になり、みかけなかったナンバーのDF50が姿を現したりしたからだ。今のように鉄道雑誌が細かくフォローしていなかったから、うわさが先行したり、入っていないはずのナンバーのDF50がいるなんて情報に踊らされたりした。
大学進学は四国から僕を離れさせた。休みの都度、帰郷し撮影を続けていたが、高校時代にくらべると撮影数は激減していた。当時、付合っていた彼女と一緒に撮影に出かけたりしたこともある。僕の大好きな機関車だというと、しらけた顔で僕を見ていたが、DF50の引っ張る旧型客車は彼女のお気に入りだった。
大学卒業寸前、恐れていた情報が入ってきた。
DF50の全廃の決定である。最後の運転は1号機とラストナンバーの65号機の重連で行われると。
さよなら運転の日は雨だった。大阪から阿波池田に駆け付けた。大勢の人が集まっていた。DF50はぴかぴかに磨かれ、最後の旅路に向かっていった。追っかけはしなかった。同行した大倉さん(現・文春カメラマン。宮嶋茂樹さんの本に出てくるコードネーム・ツルさん)と二人で静かに見送った。二人とも青春時代をともにすごしたDF50との別れはあまりにも悲しかったから、そうしようと決めていたのだった。



阿波池田を出発する始発列車。何度この列車で高知に出かけたことか。

吉野川を渡るDF50。このポイントは大好きで何度も撮影に出かけた。麦畑、レンゲの花、水田と季節ごとに違った表情を見せてくれた。

坪尻駅はスイッチバックの駅で停車時間も長く、撮影にはたっぷり時間が撮れた。ここで撮影して阿波池田で追いこすなんて無茶もけっこうやった。

レンゲ畑の中を行くDF50牽引の貨物列車。今ではレンゲの花を見ることも少なくなった。


DF50ズルツァー型トップナンバー1号機(左)とラストナンバー65号機(右)。1号機は現在も多度津工場で動態保存されている。毎年、鉄道の日に走る姿を見る事ができるが、箸蔵の坂に挑む、全力のズルツァーサウンドを聞くことは出来ない。

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